らじうむの月

生んでみせる


わたしは透明人間になりたい。


舞台なんかに立ってるくせに、普段の生活では人に見られたくないし人から認識されたくない、干渉されたくないし干渉したくない。病気だと言われた。だからなんなんだと思う。そんなことはわたしが1番よくわかっている。

好きな人たち!わたしのいないところで、わたしを認識せずに、わたしを全く忘れて幸せになってほしい。

お願いだから、誰もわたしを心配しないでほしい、まったく。そしてわたしも誰の心配もしたくない、神になれないのなら、生きていたくない。


(というのと、全く逆の感情とを常に行き来している)



ああ!人を救いたかった!人を救えるのが神だと思っていたけれど、神になっても人は救えないのかもしれない。人を救いたかったと思うことを人は「傲慢だ」という。「自分を神か仏だと思っているのか」


わたしは今までも神になれず、神になりたかったけれど、たぶんなれずに終わる。わたしは傲慢な人間だから、ときどきその絶望の中に沈む。


人を救い続けたいと思える人は、とても強く、わたしはその強さを美しいと思う、なぜなら多くの人はそれを笑うし、傲りだというから。

わたしはなんとなくでいいから世界を信じたい、だって世界は優しくない、人は毎日絶望しながら死んでいくし、でもみんなずっとそのことについては考えていられない、最初から考えたこともないかもしれないし、それでいいのだと思う。なぜならば、それはとてもつらいことか、自分とは関係のないことだから。


優しくなりたい。

わたしは優しくない、それどころか、ときどき世界で1番悪い人間のような気がする。わたしは自分のしたことが一生許さないのだろう、たとえ神わたしを赦してくれても、わたしは赦さないのだろう、だからこんなに。わたしがわたしの思う罪で苦しむことは、自業自得でそれを他人にひけらかしたいわけではないのに。(ブログに書く)でもなるべく自分が思うことを人の目にさらして、そして切り離したい、自分から、不可能だけれど。

ひとを好きだったとき、わたしは世界が少し優しいと思えていた。人に好きになってもらえたときも、わたしは自分が少し優しい人間だと思えていた。ときどき好きな友達が、あなたが好きだよと教えてくれるとき、世界を信じなければと思う、それがなければわたしはもう優しくなれないし何も信じられない。ありがとうあなたのおかげで生きてるよ。

美しい映画を見たとき、それを生み出した世界を少しだけ好きになれる。文学があれば、わたしは孤独と仲良くできる。音楽を聴けば、息ができる。その繰り返しで寿命が尽きるといいなと思う。