らじうむの月

生んでみせる

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死ぬことと生きることの間について2年前もこのブログに書き散らかしてたみたいだけど、読んでみたら想像以上に気持ち悪くてふわふわした文章で頭を抱えました。というか前提がすべてふんわりとぼかされていておそらく私しか意味がわからないな。わたし以外の他人をすべてわたしだと思っている節があるのですが、そういう最悪なところが完全に文章に出ている。ただしわたしは今読んでもちゃんと理解できたので大丈夫です。そのうち削除するけど、自分の若気の至り(とは言っても2年前)として今はまだ戒めのために残しておきます。


ひとが死ぬことについて考えているので嫌だなという人は戻ってくださいね


ちなみに、このブログに書いてあることはすべてフィクションですし、なんなら私見です。わたしも私であって私じゃないので、あまり気にしないで。


2年前は「死んでない」状態と「死んだ」状態ってなにが違うのよ、と思っていたところ、すっかり忘れていた昔の知人などに会い、ああ生きていればもう2度と会わないと思っていた人と会ってしまうこともある、そしてわたしはまだ死んでいない、それだけだ。というような感慨に浸っていたようです。お疲れ。


人が、自ら彼岸に行くことに関して、わたしが「終わらない夏の宿題」だと思ってるというのは今でもそう。というか、多分この先もずっとそうでしょう。終わりなどはないです、終わらせることはできるかもしれないんだけど(なんかそういう歌があったね)


近しいと思っていた人がそういう選択をしたとき、人はだいたい悲しむと思います。理由はわからない。世間では、またある宗教的な価値観では自ら向こう側に渡ることは罪にあたるし、一概に痛ましく悲しいこととされているから、身近なひとがそうなったら悲しいと思うように組み込まれている。また、大体の場合でお別れの時間もない、納得いくまで話す時間も。死ぬということは、同じ時間の中では2度とは会えないということ。それは事故や事件でも同じ悲しみがある。それから、人は大抵こういうことがあった後に、その前のサインを見出してしまう。痩せた。口数が減っていた。思い悩んでいた。何が言いたげだったかも。あの時喧嘩してしまった。あげればキリがないが、それは全部結果論で、時は戻らない。死んでいない状態なら、忘れてしまうような些細なやりとりかもしれない。それは悲しみをもたらすかもしれない。


なんで悲しいんだろ? って思ったこともある、だって、それって烏滸がましいかも。わたしに悲しむ権利があるのか?


悲劇のヒロインのように、人の死を引用して嘆き悲しむ自分に陶酔しているのではないかと考えては吐きそうになることもあるし、こういう風なブログを書き散らすこともその一環と言われればそうかもしれない。


世間は、近しい人、親しい人、大事な人、そういう人にはなんでも打ち明けられるという前提ですすむ。

例えばわたしは、中学校や高校でたびたび行われた匿名のアンケートで、☆悩み事を打ち明けられる親しい友人がいる→【とてもあてはまる】【あてはまる】【どちらでもない】【あてはまらない】【まったくあてはまらない】という設問に、何の疑問もなく答えられなかった。わたしは、思春期に自分の心を一番苦しめていた出来事について、今に至るまで誰にも話したことはない。親にも、友人にも、知らない人にも。インターネットにすら具体的に書き込んだことはない。でも家族のこともそれなりに、友人たちのことも大事に、インターネットの人のことも好きだと思う。でもアンケートによれば、それは親しさの基準を満たしてないのかもしれなかった。


人に何でも打ち明けることができれば、彼岸に行きたいという気持ちから解放されるのか?もしわたしがなにかの弾みで向こう側に渡った時に、誰にも心を明け渡さなかったことは、哀しくて、孤独だったと言われるのだろうか?

これは疑問。わたしは此岸にいる間は、やはりそう思ってしまう。彼岸に行った彼女にとって、わたしという存在は此岸に留まる縁にすらならなかった?わたしという存在や、あの時確かにあった交流はあなたの錨にはならなかったのか、と。

反対に、今誰かにすべてを洗いざらい話したら、それ以降わたしはポジティブにずっと積極的に死にたいとか思わない! 理解できない! 生きていたい! と思うようになるのか?

これは反語。そんなわけねーだろ。


だからどちらの考え方も、わかるようでわからない、此岸と彼岸では、答え合わせのしようがない。だから仕方ない。

アンケートの設問をつくったひとはそこまで考えてないと思うんですが。だからああいうアンケートになるんですが!


わたしはそれ以降、何かあったときは、出来る限り此岸の人間のことしか考えないようにしている、答え合わせがまだ間に合う人間の悲しみにできるだけ寄り添えればいい。彼岸に行ってしまった人たちには、なるべく安らかであること、それだけ。後からわたしたちが何かを推測し、暴こうとしても、それはすべて暴力的な押し付けに過ぎない、でも人は知ろうとするし暴こうとする。彼岸の人間を依代にして都合のいい主張をしたりする。それが人によっては悲しみや憤りを癒す方法でもあるから、なんとも言えない。でも彼岸に行った人の望むことはわからないから、出来る限りなにも背負わせず、期待せず、押しつけず、安らかであることを祈って、わたしたちはわたしたちの間で、答え合わせをしていくしかない。



と思ってたら朝だ〜 しかも前の記事が留年太郎最悪物語なので落差が激しかったね。

ここまで読んだ人はおつかれさまでした、わたしはどっこい生きてるよ〜んのテンションで常にいるのであまりシリアスにならずに愉快に暮らしてます。もし自分がシリアスになりすぎてヤバイな〜ということがあったらいつでも愉快なわたしにお声がけください。中和しよ!