らじうむの月

生んでみせる

遅れない夏休みの宿題


9月に入った。
夏休みの宿題を計画的に終わらせたことのない人生の夏休みの宿題代わりじゃないけど、「新ではない」発見

夏の夜、クーラーのタイマーが切れて、足で布団を蹴飛ばして、暑くて寝苦しくて目が覚めて、枕元のスマホを適当にシャッフルして流れたキリンジ、真っ暗な部屋の底でスマホの灯だけがついてるとき、とても最高。


相対性理論、曲もそうだけど言葉のセンスがすごい、スケール感がやばい、時空間ひとっ飛びの歌詞、なんだこれ。


大森靖子さんの曲、いつでもどれかがわたしを肯定してくれる、肯定しながら否定したりする、言葉のスピード感、彼女は消費されてくたくさんの泡沫の言葉を全部拾って歌う人、いつだって最新が最上だって信じたいときも、最新に疲れたときも寄り添ってくれる。最強じゃん。


キッコーマンの豆乳飲料の紅茶味めっっっちゃくちゃ美味しい、これをゼラチンでプリンみたいにすると、はちゃめちゃスーパー美味しいアゲイン。


たくさん送られてきた梨をコンポートにすると素晴らしい。そのまま食べても、ヨーグルトかけても、贅沢にヴァニラアイスとキメても良い。なななんと、副産物のシロップを炭酸水で割ると天にも昇る心地。


アイラインが左右ともにうまくひけるとちょっとその日1日気分がいい。


夜更かしすると、寝坊する。




生きているのではなく、死んでないだけ。


病気みたいなもので、常に生きることと死ぬことを考えている、これが本当はわたしの終わらない夏休みの宿題。

「生きていること」と「死んでいること」の境界線はどこにあるのだろう、わたしにとって、ずっと会わずに、これから先もなんのヒントもないままの人たちと、死んでいった人たちの何が違うのだろう。

そういうときのわたしは、計算が合わないことがわかりきっているのに何度も何度も計算し直し続けて、何度も何度も同じ合わない数字を前に途方に暮れる、いつのものなのか、何の数字かもわかっているけれど取り戻せない不足分を探すふりをし続ければ、いつか取り戻せると思いたいからだ。


夏はたくさん、今まで会えなかった人に会えた。


1年以上前に絶縁する!会わない!メールも返しません!といって、時々くる長文メールも無視していた相手と半年前に会ってしまい、なんとなく夏も会った。

楽しい時間を過ごせるとは思っていなかった人と楽しく過ごすことができて、人は生きてる限り以前の自分を撤回できるのだと知った。

なんの消息も知らなかった友達と偶然会った。

お互いのたくさんの知らない時間を1度に埋めたら、何度も水面下でわたしたちの道は近いところを通っていたのだと知った。知らないことは断絶ではなく、ただ見えていないだけのたくさんの糸。わたしたちは死んでないだけ、死んでないだけでいくらでも生きている。



死んでない人と死んだ人、「死んでない」ことと「死んだ」ことは全然違う、全然違った。

当たり前のこと。

考えることでわたしが取り戻したいものは永遠に戻ってこない、それでも考え続けるのが何故なのかはわからない、とにかく、わたしの周りの「生きている」人たちとわたしは、まだ「死んでない」という発見だけがあった。

(贖罪ではない、何故ならわたしに罪があるとして、わたしの罪を認めることのできる人はもう「生きてない」し、わたしはなんの裁きも受けられなかったから。)


秋冬は1番好きな季節だから、はやくあったかくしたい、はやくはやくこないかなって楽しみにしてる今がとても心地いい。